明日、君に届く歌 〜Mabinogi Prelude〜


第1章 白い世界

 ヒュウゥゥゥゥ……。
 ヒュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。

 細く長く、風の音が響き渡る。
 そこは、不可思議な白い世界。

 空高くそびえ立つ台(うてな)の上に、僕はいた。
 真っ白な台には、四葉のような形の複雑な紋が刻まれている。
 暁をやや過ぎた刻限なのだろうか。周囲はグレーとピンクと白い光が少しずつ入り交じり、薄くたなびく雲と共に、複雑な空の色を織り上げている。
 何羽もの鳥が台の周りを、くるくると旋回している。
 遠く、近く。
 高く、低く。
 羽音は一つも聞こえない。
 鳥たちは、みんな、真っ白なフクロウなのだ。
 時折低く鳴き交わす以外、静かに、ただ静かに、彼らは台の、僕の周囲を競うように舞っている。
 彼らの舞は、まるで、僕の来訪を喜んでいるかのように見える。

 ヒュウゥゥゥゥ……。
 ヒュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。

 風の音が、響いている。

 僕は、一体どうして、ここに辿り着いたのだろう。
 この現実味のない世界に。

       ◆

ふわり。
 突如として影が閃き、僕はハッと息を飲んでその空間に目をやった。
 そこには、一人の乙女が出現していた。
 身体にぴったりと沿った形の、黒い薄布のロングドレスを纏い、さらさらの長い銀髪は二つに結い上げている。深い青の瞳は、温かく、穏やかな光をたたえている。
 とても美しい人だ。
 その人が、同じ台に在る僕の姿を認めた。
 思わず、二、三歩後ずさった。
 だが、彼女は、そんな僕をまっすぐに見つめた後、軽く首を傾け、穏やかな微笑みを浮かべた。
 たったそれだけのことで、僕の怯えは解けていった。
 彼女からは、全く敵意が感じられない。それどころか、随分友好的に思える。彼女を見つめ続けていると、安心感さえ込み上げてくるのだ。
 もちろん、僕はまだ、相当に混乱しているのだけれど。
「エリンへようこそいらっしゃいました」
 容姿に違わぬ穏やかな声音で、彼女は言葉を紡いだ。
「ずっとあなたをお待ちしていました」
 そして、頭を下げたのだ。
 だけど、何を言われているのか、僕にはよくわからなかった。
「……エリン、だって?」
 あっけにとられたまま、ようやく僕は問い返した。
 彼女はゆっくりとうなずいた。
「はい。ここは『門』にあたる場所ですけれど」
「ということは、天国とか、地獄の入り口みたいなもの?」
「いいえ、そうではありません。あなたがいらっしゃった世界とは異なる世界の入り口とお考えください」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ここは異世界だって言うのか、君は?」
「あなたにとっては、その通りです」
 あくまでも優しく穏やかに彼女は答えてくれたのだが、僕はますます訳がわからなくなり、頭を抱えてうずくまった。

 だって、僕は……僕は、あの時死んだはずだ。
 死んだのなら、天国だか地獄だかに行くよな、普通は。
 そいつが、信仰を持つ者の自然の摂理ってやつだよな。
 だったらなぜ、僕はどこをどう間違って、異世界の入り口なぞに来てしまったというのだろう?

「混乱していらっしゃるのはわかります。でも、あなたをこちらの世界に呼び寄せることができる瞬間が、あの時しかなかったのです」
 私の力が及ばないばかりに、本当にすみませんでした、と言って彼女は再び頭を下げた。
 もちろん、そんな言葉や態度では到底納得できない。
 僕は彼女の語る言葉の意味を深く考えもせず、彼女に詰め寄り、思いつくまま矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「僕は一体どうなったんだ? 死んだんだろう? なのに、なんでこんな場所にいるんだ?」
 自分の身に何が起きたのかを知らなければ、この混乱と恐怖を押さえつけることなんてできない。
「教えてくれ、君は知っているんだろう? 僕は、死んだんだよな?」
「いえ……」
 言葉を切った後、彼女はうつむいた。そうして暫く言葉を探していたようだが、やがて顔を上げ、僕の目を見つめてきっぱりと言った。
「死んでいません」
 それは意外な答えだった。
 彼女の両肩を掴んでいた僕の手から力が抜け、ぱたりと両脇に落ちる。
「どういう……ことなんだ?」
「私は、あなたの魂だけをこの世界に呼び寄せているのです。命を失った方を呼ぶ力は、私にはありませんから……」
 だから僕は死んでいない、と彼女は言うのだ。
 けれど。
「だけど……あれじゃ、とても生きてはいられないはずなのに」
 銀色の光が僕の身体を断ち、僕は一瞬で鮮血にまみれた。助からない、そう思った。同じような傷を負った兵士は、みんな助からなかったから。
「ごめんなさい、ますます混乱させてしまっていますね、私。もっと上手にご説明できたらいいのですけれど……」
 申し訳なさそうな顔で、それでも彼女は精一杯言葉を尽くして教えてくれた。
 ここは僕にとっては異世界にあたる世界だということ。
 僕が重傷を負った瞬間、彼女の力によってこの世界に召喚されたのだということ。
 召喚されたのは僕の魂だけで、肉体はまだ、僕のいた世界にあるのだということを。
「……あなたの時間の流れで説明しますと、あなたの世界は今、あの瞬間のまま、時が止まっている状態なのです。あなたの魂があちらにお戻りになりますと、あの瞬間から時間が流れ出します」
 これまで彼女が語ったことを整理して考えてみれば、答えはすぐに導き出せることだった。
「ということは……僕は、魂が向こうに戻った瞬間に、死ぬってことか」
「……ごめんなさい。あなたの未来について、私はお話しすることを許されていません」
 苦しげな表情で彼女はそう言って、口をつぐんだ。
 やはり、彼女はあの後、僕に残された時間を正確に知っているに違いない。
 ほぼ間違いなく、僕はここを離れたら死ぬのだ。
 ほんの少し、地獄行きを遅らせているだけなのだ。

 ──そうか、やっぱり……。
 ──結局、幸せにはなれなかったな。

 僕は唇を噛んだ。虚ろな人生から解き放たれた開放感と同時に、どうしようもない悲しみが僕を満たしていく。

 ──馬鹿だな。今更、自己憐憫なんてみっともないよ。自分で望んだ結末じゃないか。

 込み上げる涙を封じ込める為に、僕は、きつく目を閉じてぎゅっと拳を握った。
「……わかったよ。じゃあ、なんで死にかけの僕をここへ呼んだ?」
 まだ少し、声が震えている。我ながら呆れてしまう。僕って奴は、本当に……死の間際まで臆病で、センチメンタルなんだ。
 そんなことを考えた、永遠のようで、ほんの一瞬の、間の後で。
「あなたの『マビノギ』を見てきたからです」
 やはり、震える声が聞こえた。
 目を開けると、揺らぐ視界の向こうで、彼女もまた涙を堪えている様子だった。

     ◆

 マビノギ。
 ウェールズの古い神話や英雄譚の総称だ。マビノギオン、マビノギ四枝としても知られている。
 吟遊詩人なら、必ず聞いたことがあるはずのその言葉。
 僕もかつて、師から教わった。

 だけど、僕の『マビノギ』だって?
 そんなものが、どこにあるというのだろうか。

     ◆

 すると、今度は、彼女が僕に問いかけてきた。
「あなたは、私の声を覚えていらっしゃいますか?」
「君の、声?」
「はい」
 囁くように小さな声で返事をし、彼女はじっと僕の答えを待っている。
 僕は、悲しみに満ちた記憶を辿った。
 そして、不意に悟った。

 ──ああ、そうだったのか。

 いつも僕の側に在った、慈愛に満ちた声。
 神様でも天使でもなかった。
 彼女こそが、絶望の縁に立たされた時、僕を狂気から、死から、守ってくれた声の主だ。
「……あれは、君だったんだね?」
 伝わらないようで伝わるはずの問いを、そっと、投げかけた。
 返事は、ない。
 けれど、その涙を堪えた微笑みが確信をくれる。
 僕の辛く短い半生を見守り続けた声の主は、彼女だったのだ、と……。


≪第2章へつづく≫

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